LSClubs

オレンジパワー全開!
創立20周年を迎えた法政大学SLSC
2013/03/31

法政大SLSC創立20周年記念パーティー

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昨年行われた第27回全日本学生LS競技大会にて、男子総合4位と過去最高の成績を上げた法政大学サーフライフセービングクラブ。

学生2人からスタートし、着実に歩みを進めた同クラブの創立20周年を祝う会が盛大に開催された。

文・写真=LSweb編集室





良き師、良き友、集い結べり
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 「自由と進歩」を理念に掲げ、1880年に建学された法政大学に、サーフライフセービングクラブが誕生したのは1993年のこと。以来、大学の公認サークルとして活動を続け、20周年という節目の年を迎えた。
 
 3月16日に都内で行われたパーティーには、社会人として多忙な日々を過ごす第1期生から、間もなく新2年生となる第20期の現役学生まで、そして顧問の先生やOBのご両親など80人近くが集まり、世代を超えた賑やかな交流が繰り広げられたのだった。

 法大SLSC(HUSLSC)が活動を開始した1993年は、6月に皇太子殿下がご成婚、8月にレインボーブリッジが開通、10月にはサッカー日本代表がロスタイムでW杯出場を逃がす「ドーハの悲劇」が起こった年でもあった。

 LSwebその1年前の1992年、伊豆の下田で世界選手権大会「Rescue 1992」が開催されている。そして、高校3年生の時にこの大会を偶然テレビで目にしたのが、同クラブを創立した第1期生の中條裕太さんだ。
「世界大会の様子を目にして、大学へ行ったら絶対にこの活動をしようと決めました。高校まで競泳をやっていた、自分の経験が生かせると思って。法政なら大きな大学だから、クラブもあるだとうと思っていたのですが、入学してみるとない。それならば自分で作ろうと決意しました」
 という中條さんは水泳部の先輩のつてを頼り、また友人の金子昌弘さんに声をかけて活動を開始、夏には初めてのガードも体験した。クラブが正式に立ち上がったのは、同年秋のことだ。
 
 翌春には初めての新入生勧誘も行った。さらに大学3年の時には学校を休学し、オーストラリアへライフセービング留学した中條さん。現在は損保会社に勤務しながら、大洗の海で夏季の監視活動を続けている根っからのライフセーバーである。

 中條さんや同期の金子さんと共に創生期を支えたメンバーの一人、第3期の日置三千雄さんは、当時の思い出をこう話す。
「若いクラブでしたから、私たちの代はとにかくHUSLSCの存在を知ってもらおうと、メンバー一人一人が違う浜に散らばり、ガードをするようにしていましたね」

 クラブが発展する過程で先輩たちが築き上げたスタイルは、今でも脈々と受け継がれており、現役世代が活動する浜は、白浜、鹿島、横浜海の公園、新島、式根島、三浦海岸、銚子、湯河原、九十九里、波崎などなど多岐にわたっている。

進取の気象、質実の風

 そんな現役世代を引っ張るのが、4月から新3年生となる第19期の幹部世代だ。ビーチ競技を得意とする主将の石井 颯さんに今年の目標を聞くと、「9月のインカレで2位になること」という答え。
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 一見、中途半端な2位を目標とするには、それなりの理由がある。「ぜひ表彰台に上がりたいからです。昨年は3位という目標で4位でした。2位を目指せば(他大学ががんばっても)表彰台に残れるのではないかと思って…」と真面目に話す同期の丸橋侑生さんは、個人でも、サーフ種目で表彰台を狙っている。
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「大学内に、HUSLSCほど人間の命と向かい合っているサークルはないと思います。時に若者らしい振る舞いをすることもありますが、命を大切にする、そのことを軸にしている皆さんから私自身、実に多くのことを教わりました」
 と話すのは2代目顧問の小林 明 氏。

 LSweb法政大学スポーツ健康学部の学部長であり、初代顧問の苅谷春郎教授も、
「ライフセービングというのは21世紀型の活動だと思います。若者たちが自主的に始めたものであり、縦社会ではなく横の繋がりで広がっていった活動ですよね。活動の拠点となる海水浴場には既得権も多い。そこで新しい活動を始め、認知されるようになったわけですから、ライフセーバーが日本の海辺を変えたといってもいいのではないでしょうか。そういう観点からも、彼らの今後の活躍に期待しています」
 とエールを贈ったのだった。
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 世代を超え親睦を深めたパーティーは、あっという前にお開きの時間に…。最後は、幹事を務めた第9期の落合慶二さんが、こんな言葉で締めくった。

「僕は学生時代、中條さんに“法政ライフはお洒落で、かつ礼儀正しくあれ”と教わりました。ストイックに活動を追求している仲間も、バイトに精を出し、たまにしか練習に顔を出さない仲間も、お互いが居心地悪くならないように思いやることができる、それもHUSLSCらしさだと思っています。でも20周年を迎え、僕はもう一つそこに加えたいと思います。“法政ライフはお洒落で、かつ礼儀正しく、そして強くあれ”と」

 パーティーの終盤には、全員で校歌を合唱する場面があった。
 法政大学の校歌にはこんな一節がある。——青年、日本の代表者——
 そしてスクールカラーは暁の太陽を表すオレンジ(と青空を表すブルー)だ。オレンジパワー全開で奮闘する同クラブの活躍に大いに期待しよう。
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活動開始から50年
西浜SLSC、半世紀の歩み
2012/12/27

NISHIHAMA SLSC 50th Anniversary

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西浜SLSCの創設50周年記念イベントが
11月24日、神奈川県藤沢市で盛大に行われた。

シンポジウム、式典、そしてパーティーと
三部構成で行われたイベントには、
創設時のOBから小学生のジュニア、
地元の行政担当者や地域の関係者、
そして多くのライフセーバー仲間が駆けつけた。



文・写真=LSweb編集室





地域クラブの先駆者として

 西浜サーフライフセービングクラブの前身である「湘南ライフガードクラブ」が誕生したのは、高度経済成長のまっただ中である1963年のことだ。以来、藤沢市の片瀬西浜海岸で、海水浴シーズンのパトロールを行う有志集団として活動を続け、1995年にクラブ組織化、2003年にはNPO法人化し現在に至っている。2012年12月現在、クラブメンバー194人、ジュニアメンバー80人が所属するのが、西浜SLSCである。
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 1960年代当時、藤沢市の海水浴場には、一夏で500万人を超える遊泳客が押し寄せていたが、同時に事故も多発していた。その状況を改善したいと、こころざしある若者たちが集まり、日本赤十字社の水上安全法資格を取得して活動を始めたのが、西浜SLSCのルーツなのである。さらに1999年からは江の島の岩屋、2004年からは片瀬東浜海岸での夏季パトロールも行うようになった。

 クラブ組織化された1995年以降は、夏季だけでなく年間を通した活動で地域に貢献。その最たるものが、ビーチクリーンであり小中学生を対象としたジュニアプログラムだ。

 毎月第2日曜日に片瀬西浜海岸周辺で行われているビーチクリーンは、当初は10人ほどのクラブメンバーが参加する地道な活動だった。しかし、続けることで地域住民にもしっかりと定着し、今では多い時には1回で300人ほどが集まる活動に成長。その功績が認められ、昨年には藤沢市より環境大賞を、そして今年は天皇陛下より緑綬褒章が授与された。

 一方、クラブメンバーの子どもたち数人を対象に2000年からスタートしたジュニアプログラムは、現在、定員いっぱいの80人を集める規模に拡大。同クラブのジュニア卒業生が日本代表選手として世界大会に出場し、メダルを獲得するという実績を上げるまでになった。

 LSwebまた、2009年に起こった地元の中学生の水難事故を契機に、藤沢市教育委員会との協働事業として、市内の小中学校でジュニアライフセービング教室を実施するようになり、これまでにのべ1万4600人以上の子どもたちに水辺の安全教育を行っている。

「湘南」という地域ブランドを生かしつつ、半世紀にわたって真摯にライフセービング活動を続け、そのすそ野を広げてきた西浜SLSCの取り組みは、日本における地域クラブのひとつのモデルケースといえるだろう。だからこそ“西浜モデル”をお手本に、近年では海水浴場でのパトロール活動だけでなく、全国各地で、水辺の環境保全活動やジュニア世代を対象としたプログラムが展開されるようになったのだ。

 西浜SLSCは今後も、リーディングクラブとして他クラブから目標とされる存在であり続けるだろう。しかし同時に、「追いつけ、追い越せ」という対象でもあるはずだ。記念式典で挨拶に立った同クラブ理事長の土志田 仁さんは、結びの言葉をこう締めくくった。
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「半世紀にわたって“地元の海を守る”という活動を続けてこられたのは、数多くの先輩方のご苦労と教えがあったからであり、苦節を共に乗り越えてきたメンバーのおかげでもあります。確かに私たちには一日の長があるかもしれません。しかし、各地のクラブが今後さらにそれぞれの活動を充実し、私たちを越えていってくれれば、それに勝る喜びはありません。それはすなわち、私たちライフセーバー全員が目指す“水辺の事故をゼロに”という思いに向けて、確実に前進しているわけですから……」

 式典に出席したジュニアメンバーの内堀夏怜さんは、今後の抱負を聞かれ、キッパリとこう言った。

 「これからもライフセービングを続け、100周年のパーティーにも出席したいです!」

 その瞬間、会場がドッと沸いたのはいうまでもない。列席したOBやOG、関係者の中には、「50年後はもうあの世だわ(笑)」という人もいただろう。しかし、自分たちが青春を、あるいは人生をかけて築き上げてきたものが、ジュニア世代、そしてそのまたジュニア世代によって引き継がれていく様子を、はっきりと感じることができた瞬間だったのではないだろうか。
 50年という節目を越え、新たな歩みを始めた西浜SLSC。10年後、20年後、そして50年後……。西浜SLSCはどんなクラブになっているだろうか。

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近隣クラブが交流を深めたシンポジウム

 さて、創設50周年の記念イベントでは、地域クラブの先駆者らしく第一部にシンポジウムを開催。「クラブマネージメント」と「ジュニアプログラム」を題材に、近隣クラブの代表や担当者、そしてライフセーバーたちを交えた活発な討論が行われた。

 クラブマネージメントについては、西浜SLSCの事務局担当理事である風間隆宏さん、鎌倉ライフガード代表の多胡 誠さん、湯河原LSC代表の佐藤慶太さん、そして葉山LSC代表の加藤智美さんがパネリストとして参加。各クラブの活動実績を紹介しつつ、それぞれのクラブが抱える課題や問題点について、参加者も加わっての意見交換が行われた。
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 さまざまな課題が浮かび上がる中で、西浜SLSCを含め、各クラブが抱える一番の問題点は夏季の人材不足だということで一致。では、それぞれのクラブはいかにしてその問題に取り組んでいるのだろうか。
 その一例を挙げると、鎌倉LGではメンバー確保の入り口を広くするために、有料の求人情報などにも求人広告を載せ、ベーシック資格なしでもパトロールが始められる体制を整えた。
 
 湯河原LSCは、クラブの存在を一般にも広く知らしめるためにHPを積極的に活用。また葉山LSCは、地元で行われるイベント(お祭りなどの地域行事やマラソンなどのスポーツ大会など)には極力参加し、地域住民、さらには地元行政にもクラブの存在を印象づける努力をしている。
 運営資金はどう工面するのか、専任スタッフなしで事務作業をどう処理していくのかなど、今後、新たに解決していかなければならない課題も見つかったが、このシンポジウムを機会に各クラブが情報を共有し、横の繋がりを深めることで解決策も見えてきそうだ。

 ジュニアプログラムについては、西浜SLSCの今井恵子さん、湘南ひらつかLSCの大森裕美さん、つづきの丘ジュニアLSCの石原早織さんの3人を迎えてディスカッションが行われた。
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 通年のジュニアプログラムを運営する上で、各クラブともに注力しているのが保護者にもライフセービングを理解してもらうこと。現在、メンバーが6人と小規模なつづきの丘ジュニアLSCでは、必ず保護者と会って直接話す機会を設け、プログラムへの理解を求めている。
 
 湘南ひらつかLSCでは、2008年からジュニアメンバーの夏季ガード体験を実施しているが、体験会の前に保護者同伴の説明会を開催し、ライフセービング活動中に起こりうる事例の周知徹底を行っている。
 
 ジュニアプログラム開始から12年目に突入した西浜SLSCでは、年度初めのオリエンテーションで協力を要請するだけでなく、保護者のための講座も設けることで、より積極的に活動に参加してもらう工夫をしているなど、各クラブの取り組みは参考になる部分が多かった。

「ライフセーバー仲間の方たちには、ただ式典に列席していただくだけでなく、ライフセービング活動を続ける上で参考になるような“おみやげ”も持って帰ってもらいたかったのです」
 と言うのは、シンポジウムの企画、司会進行を担当した風間さん。時間に限りはあったが、参加者たちはきちんと“おみやげ”を持ち帰ることができたと思う。


約500人が集った式典とパーティー

 シンポジウムに続き開催された式典とパーティーには、西浜SLSCのOB・OG、現役メンバー、ジュニアメンバーとその保護者、さらには鈴木恒夫藤沢市長、小峯力JLA理事長など来賓、そして近隣クラブのライフセーバーたち、約500人がかけつけた。
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 式典では、1960年代当時のパトロール風景や、今やクラブの重鎮となっているメンバーの若かりしころの姿など、懐かし写真やビデオがスクリーンで紹介された。圧巻だったのは、歴代の警備長が一同に集合した姿だ。一人一人の顔を見ていると、その時代のガード風景が目に浮かぶ気がした。

 またパーティーでは、2000年から始まった「西浜ライフセーバーオブザイヤー」の受賞者全員に記念のアンカー(錨)盾が贈られた。
 
 当日の盛り上がりは、改めてお知らせするまでもないと思う。その替わりに、西浜SLSCのメンバーであるオーシャンプロモーションズの合田光伸さんが制作し、式典で流された50周年記念映像を紹介しよう。

「SINCE1963 – History」



 ところで、西浜SLSCのロゴマークはカッター(=サーフボート)でキア立て(櫂=オールを空に向かった立てること)している構図だ。
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 実は同クラブには「カッターのこころ」という理念があるそうだ。クラブが活動を始めた当時は、手漕ぎボートくらいしか救助機材がなかった。カッターは呼吸とタイミングを揃えなければ、前進さえままならない。訓練を重ねることにより、体力向上はもちろんのこと、チームの結束力が強化され、結果として的確な人命救助に繋がる、というわけなのだ。

 「皆で同じ方向に進むようよ、力を合わせれば真っ直ぐに進むよ」という思いが込められたロゴマークとともに、西浜SLSCは51年目の歩みを始めた。





新島ライフセービングクラブ、祝・設立25周年!!2012/12/15

新島LSC、25年を振り返って

LSwebLSweb2012年11月17日、新島ライフセービングクラブが設立25周年という節目を迎えました。

「人の命を大切にしたいという思いで、新島にサーフライフセービングの技術が導入されたのは25年前。
現在のようにライフセービングの活動が島の方々に認められる存在になるには、携わった多くの人々の懸命な努力がそこにあったからこそです。
決して容易ではなかったことを皆様にお伝えし、携わった関係者の方々に感謝の言葉を贈ります」
 
と、いうメッセージとともに新島ライフセービングクラブの25年間を振り返るレポートを、
同クラブ代表の田村浩志さんより頂きましたのでここに掲載します。

携わった皆さんのご苦労を尊びながら、新島LSC25年の軌跡を振り返ってみたいと思います。
                                     
                                      (LSweb編集室)


文・写真=田村浩志(新島LSC会長)





ゼロからの出発

 1960年代後半から始まった離島ブームは、80年代後半にはピークに達し、80年代後半もまだ多くの観光客がここ新島を訪れていた。
 
 当時、新島村役場産業観光課係長であった富田 昇氏は、一般公募による新島の海浜監視員に頭を悩ませていた。公募で集められた監視員には日赤の水上安全法などを数日間かけて習得させ、泳力により人員配置などに工夫を凝らしてはいた。
 しかし、一般公募による海浜監視員には、救助に必要な知力・泳力に不安があり、毎日の様に起きる海の事故には役場の職員等が対応せざる終えない状態が続いた。
 
 そんな状況の中、たまたま新島を訪れた日本ライフガード協会JAGA(日本ライフセービング協会JLAの前身)の関係者と富田氏が偶然に知り合ったことがきっかけとなり、1987年初夏、新島村役場は当時のJLGA会長故 金子邦親氏と事務局長相澤重男氏との間で委託契約を結ぶことになる。
 
 1987年夏、JLGAの依頼を受けて上野真宏氏(現JLA事務局長)と佐久間 真氏(新島出身で現在、新島村教育委員会に勤務)が新島を訪れ、監視業務に参加した。しかし、人員配置のイニシアチブは、前年まで新島を仕切っていた監視員が執り、波の荒い羽伏浦海岸などにはサーフボードを持ったサーファー中心のメンバーで組織された。
 
 反面、式根島(当時は式根島も新島の監視業務の一つであった)や波のあまり立たない浜は、新人やサーフィンをしないメンバーが任されるといった偏った配置がなされ、まだレスキューボードが各浜に配備されていなかったこともあり、サーフボードを利用したレスキューで対応するといった方法がとられた。
 また、監視中にサーフィンをすることも許されていたため、波のないところへ配属となった者が無断で波のある場所へ移動するなど、今では考えられない状況も見られた。
 
 このように未熟な環境の中で、上野、佐久間両氏は、タワー、パトロール、各種チェックなどのローテーションを綿密に行い、またビーチクリーン、若郷支所への定時無線報告など、今では当たり前になっていることをきめ細かに行なった。
 
 このことが若郷の支所長に高く評価され、それら全ての様子が新島村役場へ報告された。さらには伊豆七島のほかの町や村にもそれまでにはないすばらしいシステムだと噂が広がり、現在の三宅島、神津島、式根、新島体制へと繋がったのである。
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心強かったオージーライフガードの助人たち

 翌年1988年には本格的なサーフライフセービングシステムがスタートした。
 
 この年からワールドライフセービング(現在のサーフライフセービング)の資格所持者を中心とした人員で組織され、レスキューボードも導入された。
 それでも未だ経験の浅い1年目のメンバーが多く、まだまだ知識や技術に対する不安は払い切れなかった。
 
 そんな不安な状況を払拭してくれたのが、この年の豪日交流基金支援プログラムで来日した二人の現役ライフガードであるスチュワート・キャメロン氏とピーター・ワドコード氏の来島である。
 
 その夏、彼らが見せたプロフェッショナルな行動は、新島のライフセーバーに大きな影響を与えた。また、同年にはIRBとヤマハ発動機から貸与されたマリンジェット・パトロール艇も導入されている。これらも彼らの存在があったからこそ実用的な機動力となった。この水上バイクの導入は、国内初の救助用PWC導入事例となっている。
 
 当時、産業観光課の主事であり新島ライフセービングクラブ顧問の富田浩章氏は、当時のIRBレスキューデモンストレーションの様子を「溺者までのアプローチは数秒、手をかけて引き上げるのに1秒足らずであった」と、本場のライフガードから学んだ技術を今でも高く評価している。
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 その後も、幾度となくオーストラリアからライフガードたちが来日してくれ、活動の大きな助けとなっている。


故 前田のじいちゃん

 羽伏浦監視小屋といえば、故 前田のじいちゃんのことを語らずにはいられない。

 LSweb1988年、羽伏浦海岸チーフとして浜に入った、当時日本体育大学3年だった田口富一氏(現千葉県立成田国際高等学校教諭)は、監視に入った当初、前田のじいちゃんに助けられたと語っている。
 
 浜1年目のライフセーバーにとってリップカレントを見分けることは容易ではない。その日は波が高く、非常に強いカレントがあった。そんな状況下、カレントに流され助けを求める遊泳客を発見した田口氏は、カレントの場所を確認せず海へ入ろうとした。
 
 それを見た前田のじいちゃんは「田口! そこから入っちゃ行かん! そこから入っちゃ行かん!」と大声で息を切らせながら、鬼の様な形相で追いかけて来たという。
 
 そのときのおじいちゃんは、直感的にその澪(カレント)が危険だと判断したのであろう。前田のじいちゃんは世界中の外洋を回った漁師であり、羽伏浦の海を何十年と見続けている。監視小屋に監視員として、また新島の歴史を教えてくれた方でもある。

 新島のライフセーバーは、こういった知恵と技術を持った心強い島の人に助けられてきたのである。


日体大のサポート、そして2004年の転機

 1989年から2003年までは、小峯 力氏(現JLA理事長)率いる日本体育大学ライフセービング部のメンバーが新島の監視業務に当たった。
 
 1990年代は各地でライフセーバーのニーズが高まり、日本体育大学ライフセービング部のメンバーも、ピークで300人を超える大所帯となった。
 その中でも新島のメンバーは、新島の屈強な環境に堪えられる選抜メンバーのみで組織されていた。90年代までは女人禁制の男所帯で、ここでの監視業務がいかに困難であるかを物語っている。
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 また、88年~98年までの全日本選手権は、日体大の代表メンバーが総合優勝を続けた黄金時代でもあった。その代表メンバーのほとんどが、新島出身者から選抜されていたのも今から思えば特筆すべきことである。
 
 2004年、ここまで順調に整ってきた島の監視体制が突如、ピンチを迎える。
 
 島の監視に欠かせない存在だった日体大ライフセービング部の“新島撤退”という非常事態が起こったのである。その当時の苦悩と苦労の様子を当時顧問だった富田氏は、25周年記念式典スピーチで以下のように語った。
 
 「1989年から2003年までは日本体育大学の学生が中心となって新島の監視業務に当たってきましたが、時代の変革と共に学生数が減り、ライフセーバーの確保が非常に困難になった。そんなとき日本体育大学のクラブが新島を撤退・・・。

 それは、あの2004年の出来事です。あの時は、日体大から突然撤退を告げられた年でした。しかも夏の直前です。クラブの存続というより、新島村にこれまで築いてきた監視体制が失われる危機に直面しました。夏にガードが誰もいないかも知れないという状況。本来は新島で有終の美を飾るはずだった4年生は、配属された他の島から、くやし涙で連絡してきたことを憶えています。
 
 この危機を救ってくれたのが、体救会、つまり田口前会長をはじめとする日体大OB、OGの皆さんでした。年月が経過し、皆は定職についたり、主婦だったりと多忙の日々を送っていました。
 
 振り返れば、最も少ない日は6人(新島の監視業務には通常20人以上のメンバーが必要)くらいだったと思います。その方たちが、一日、半日と交代で監視についてくれました。なかには、来島した直後に会社から緊急連絡が入り、その船で戻っていったOBもいました。

 LSweb 今だからお話ししますが、田口前会長は自らガードに付き、無理をして頑張って、ようやく本土に帰って本業(高校教諭)の野球部の合宿に行ったときに倒れました。
 
 ガード最終日。無事故を成し遂げての打ち上げ。村からは村長、協会から小峯理事長も来て下さいました。メンバーの大野謙策くん、アキくんがつくったケツメイシの夏の思い出の替え歌、それに島ちゅうの宝を、全員で肩を組んで歌い、そして泣きました。男泣きしました。あの日のことを忘れません。(以上、顧問富田浩章氏スピーチより)」

 この年、2004年のガード最終日に新島ライフセービングクラブは正式にJLA公認クラブとしてスタートしたのである。


25周年を迎えて「原点回帰」

 2005年の夏、新島ライフセービングクラブは日本ライフセービング協会公認クラブとして新たなスタートを切った。
 
 今まで続いた日本体育大学の学生に代わり、OB多田貴将氏が講師を務める東京スポーツレクリェーション専門学校(TSR)の学生が中心に、監視業務に参加した。1年目で新たに伝統を築くTSRの学生にとってはゼロからの出発であったにも関わらず、今考えるとこのときのTSRの学生は本当によくぞ頑張ってくれたとつくづく感じる。人がいることのありがたさをこれほど感じたことはなかった。


 監視業務を続けられる喜びは、新しいメンバーを育てることで新島の海を守ることにつながる。その後はメンバー等の献身的な浜紹介により、東京女子体育大学、日本女子体育大学、法政大学、玉川大学、東京海洋大学、流通経済大学、そして新たに社会人も加わり十分な人材をここ数年保っている。
 
 そして現在行っているジュニアプログラムの実施により、島の子どもたちからライフセーバーを誕生させることも今後の大きな計画の一つである。年齢に制限のないボーダレスなクラブとして現在のクラブへと発展していった。
 
 今後はオーストラリアのようなクラブ形式によって地域を豊かにすることが望まれる。ただ、島の受け入れ体制も考慮に入れなくてはいけない。夏期業務の1日の要請人数は新島で約22人である。現在はそれに十分な人員を備えているが、島で受け入れるキャパシティには限界があることも否めない。
 
 クラブが大きくなっていくことは、ファシリティの整備も十分にしなくてはならず、今後の課題となっている。新しい人の出会いはすばらしく創造的であるものの、問題もそこには起きてくる、しかしながら人が出会えばある意味衝突はあってしかるべき、それを乗り越えてこそすばらしい組織になると思っている。今まさにその過渡期である。LSweb 

*
 最後になりましたが、今回この25周年記念式典を迎えるにあたり、たくさんの島の方々、また関係各位に支えられてきたのだと改めて感じております。
 皆さま本当にありがとうございました。
 
 新島ライフセービングクラブは、海浜の安全を守るためこれからも日々努力致します。
 今後とも何卒よろしくお願い致します。






TATEYAMA SURF CLUB2012/08/16

ホームページ:http://www.tateyama-sc.com/

 TATEYAMA SURF CLUB(タテヤマ サーフクラブ)は、2006 年、総合型オーシャンクラブを目指し、千葉県館山市を拠点に設立されました。設立当初より、館山市内全海水浴場にて夏期監視活動、海イベントの開催など年間を通じての活動を行っています。

文・写真=TATEYAMA SURF CLUB




 

 初年度数名から始まったメンバーが現在は約90 名となり、社会人が約半数、学生、ジュニアと年々クラブ員も増加しています。
 学校のクラブを卒業し社会人になるとライフセービングから離れてしまう、先輩、仲間、後輩が多かったので、卒業して社会人になっても活動できる場所、皆が集まる場所を作りたいと思っていました。その願いが少しずつ形となり、昔からの仲間たちが再び海に戻ってきてくれています。また、社会人から新しく始める仲間も多くいたり、学生も徐々に増えてきたりと、さまざまな職業、年代の人たちがクラブに集まってきてくれ、それぞれのスタイルに合わせた活動を行えるクラブとなっています。
 ライフセービングの大会にもTATEYAMA SURF LIFE SAVING CLUB として積極的に参加し、年々成績も上がってきています。
今年度、「第25 回全日本ライフセービング・プール選手権大会」にて念願の総合日本一を獲得。今年10 月に行われる海の大会、「第38 回全日本ライフセービング選手権大会」でも総合優勝をねらい、完全優勝を目指しています。
 2010 年度の「ライフセービング世界大会RESCUE2010」の日本代表12 人のうち5 人、2012 年度「世界大会RESCUE2012」でも日本代表12 人中4 人が、館山SC のメンバーから選ばれるなど、設立は浅いながらも、日本のトップチームとしての地位を確立しています。

 また、中学生までのジュニアプログラムにも力を入れており、現在30 人程のメンバーで年間を通じ活動しています。2012 年度のジュニアライフセービング大会にて、中学生の男女ともに、日本一を獲得するなどめざましい成長を見せてくれています。今後も海を好きになってもらうことを第一目標として、将来のライフセーバー育成を目指していきたいと思っています。

 

 これからも、自然が多く大きな可能性を秘めた千葉県館山で、“魅力あるクラブ作り”を目指していきますので、興味ある方はぜひ一緒に活動していきましょう。
 沢山の仲間と出会える事を楽しみにしています!!

 

トピックス

■今年で6回目となる、「オーシャンフェスタ館山」が6月16,17日の2日間に渡り行われ無事終了
初日は水の王者を決める男女混合のチーム戦、OCEAN+Z 6が行われ、2日目は一般レース、ジュニアも集まり、総勢600名近くが参加してくれました!!
来年も行いますので、皆さんぜひ参加してください!!!!
(詳細はクラブHPにてご確認ください)

■毎月第2、第4土曜日に館山にてジュニアプログラム開催
現在30名弱の中学生までのメンバーが月2回、海、ビーチ、プール等で活動しています。
現在、会員募集していますので、こちらもクラブHPからご確認お願いします!!

■2012年度全日本プール選手権 総合優勝獲得!!!!












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