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新島ライフセービングクラブ、祝・設立25周年!!2012/12/15

新島LSC、25年を振り返って

LSwebLSweb2012年11月17日、新島ライフセービングクラブが設立25周年という節目を迎えました。

「人の命を大切にしたいという思いで、新島にサーフライフセービングの技術が導入されたのは25年前。
現在のようにライフセービングの活動が島の方々に認められる存在になるには、携わった多くの人々の懸命な努力がそこにあったからこそです。
決して容易ではなかったことを皆様にお伝えし、携わった関係者の方々に感謝の言葉を贈ります」
 
と、いうメッセージとともに新島ライフセービングクラブの25年間を振り返るレポートを、
同クラブ代表の田村浩志さんより頂きましたのでここに掲載します。

携わった皆さんのご苦労を尊びながら、新島LSC25年の軌跡を振り返ってみたいと思います。
                                     
                                      (LSweb編集室)


文・写真=田村浩志(新島LSC会長)





ゼロからの出発

 1960年代後半から始まった離島ブームは、80年代後半にはピークに達し、80年代後半もまだ多くの観光客がここ新島を訪れていた。
 
 当時、新島村役場産業観光課係長であった富田 昇氏は、一般公募による新島の海浜監視員に頭を悩ませていた。公募で集められた監視員には日赤の水上安全法などを数日間かけて習得させ、泳力により人員配置などに工夫を凝らしてはいた。
 しかし、一般公募による海浜監視員には、救助に必要な知力・泳力に不安があり、毎日の様に起きる海の事故には役場の職員等が対応せざる終えない状態が続いた。
 
 そんな状況の中、たまたま新島を訪れた日本ライフガード協会JAGA(日本ライフセービング協会JLAの前身)の関係者と富田氏が偶然に知り合ったことがきっかけとなり、1987年初夏、新島村役場は当時のJLGA会長故 金子邦親氏と事務局長相澤重男氏との間で委託契約を結ぶことになる。
 
 1987年夏、JLGAの依頼を受けて上野真宏氏(現JLA事務局長)と佐久間 真氏(新島出身で現在、新島村教育委員会に勤務)が新島を訪れ、監視業務に参加した。しかし、人員配置のイニシアチブは、前年まで新島を仕切っていた監視員が執り、波の荒い羽伏浦海岸などにはサーフボードを持ったサーファー中心のメンバーで組織された。
 
 反面、式根島(当時は式根島も新島の監視業務の一つであった)や波のあまり立たない浜は、新人やサーフィンをしないメンバーが任されるといった偏った配置がなされ、まだレスキューボードが各浜に配備されていなかったこともあり、サーフボードを利用したレスキューで対応するといった方法がとられた。
 また、監視中にサーフィンをすることも許されていたため、波のないところへ配属となった者が無断で波のある場所へ移動するなど、今では考えられない状況も見られた。
 
 このように未熟な環境の中で、上野、佐久間両氏は、タワー、パトロール、各種チェックなどのローテーションを綿密に行い、またビーチクリーン、若郷支所への定時無線報告など、今では当たり前になっていることをきめ細かに行なった。
 
 このことが若郷の支所長に高く評価され、それら全ての様子が新島村役場へ報告された。さらには伊豆七島のほかの町や村にもそれまでにはないすばらしいシステムだと噂が広がり、現在の三宅島、神津島、式根、新島体制へと繋がったのである。
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心強かったオージーライフガードの助人たち

 翌年1988年には本格的なサーフライフセービングシステムがスタートした。
 
 この年からワールドライフセービング(現在のサーフライフセービング)の資格所持者を中心とした人員で組織され、レスキューボードも導入された。
 それでも未だ経験の浅い1年目のメンバーが多く、まだまだ知識や技術に対する不安は払い切れなかった。
 
 そんな不安な状況を払拭してくれたのが、この年の豪日交流基金支援プログラムで来日した二人の現役ライフガードであるスチュワート・キャメロン氏とピーター・ワドコード氏の来島である。
 
 その夏、彼らが見せたプロフェッショナルな行動は、新島のライフセーバーに大きな影響を与えた。また、同年にはIRBとヤマハ発動機から貸与されたマリンジェット・パトロール艇も導入されている。これらも彼らの存在があったからこそ実用的な機動力となった。この水上バイクの導入は、国内初の救助用PWC導入事例となっている。
 
 当時、産業観光課の主事であり新島ライフセービングクラブ顧問の富田浩章氏は、当時のIRBレスキューデモンストレーションの様子を「溺者までのアプローチは数秒、手をかけて引き上げるのに1秒足らずであった」と、本場のライフガードから学んだ技術を今でも高く評価している。
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 その後も、幾度となくオーストラリアからライフガードたちが来日してくれ、活動の大きな助けとなっている。


故 前田のじいちゃん

 羽伏浦監視小屋といえば、故 前田のじいちゃんのことを語らずにはいられない。

 LSweb1988年、羽伏浦海岸チーフとして浜に入った、当時日本体育大学3年だった田口富一氏(現千葉県立成田国際高等学校教諭)は、監視に入った当初、前田のじいちゃんに助けられたと語っている。
 
 浜1年目のライフセーバーにとってリップカレントを見分けることは容易ではない。その日は波が高く、非常に強いカレントがあった。そんな状況下、カレントに流され助けを求める遊泳客を発見した田口氏は、カレントの場所を確認せず海へ入ろうとした。
 
 それを見た前田のじいちゃんは「田口! そこから入っちゃ行かん! そこから入っちゃ行かん!」と大声で息を切らせながら、鬼の様な形相で追いかけて来たという。
 
 そのときのおじいちゃんは、直感的にその澪(カレント)が危険だと判断したのであろう。前田のじいちゃんは世界中の外洋を回った漁師であり、羽伏浦の海を何十年と見続けている。監視小屋に監視員として、また新島の歴史を教えてくれた方でもある。

 新島のライフセーバーは、こういった知恵と技術を持った心強い島の人に助けられてきたのである。


日体大のサポート、そして2004年の転機

 1989年から2003年までは、小峯 力氏(現JLA理事長)率いる日本体育大学ライフセービング部のメンバーが新島の監視業務に当たった。
 
 1990年代は各地でライフセーバーのニーズが高まり、日本体育大学ライフセービング部のメンバーも、ピークで300人を超える大所帯となった。
 その中でも新島のメンバーは、新島の屈強な環境に堪えられる選抜メンバーのみで組織されていた。90年代までは女人禁制の男所帯で、ここでの監視業務がいかに困難であるかを物語っている。
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 また、88年~98年までの全日本選手権は、日体大の代表メンバーが総合優勝を続けた黄金時代でもあった。その代表メンバーのほとんどが、新島出身者から選抜されていたのも今から思えば特筆すべきことである。
 
 2004年、ここまで順調に整ってきた島の監視体制が突如、ピンチを迎える。
 
 島の監視に欠かせない存在だった日体大ライフセービング部の“新島撤退”という非常事態が起こったのである。その当時の苦悩と苦労の様子を当時顧問だった富田氏は、25周年記念式典スピーチで以下のように語った。
 
 「1989年から2003年までは日本体育大学の学生が中心となって新島の監視業務に当たってきましたが、時代の変革と共に学生数が減り、ライフセーバーの確保が非常に困難になった。そんなとき日本体育大学のクラブが新島を撤退・・・。

 それは、あの2004年の出来事です。あの時は、日体大から突然撤退を告げられた年でした。しかも夏の直前です。クラブの存続というより、新島村にこれまで築いてきた監視体制が失われる危機に直面しました。夏にガードが誰もいないかも知れないという状況。本来は新島で有終の美を飾るはずだった4年生は、配属された他の島から、くやし涙で連絡してきたことを憶えています。
 
 この危機を救ってくれたのが、体救会、つまり田口前会長をはじめとする日体大OB、OGの皆さんでした。年月が経過し、皆は定職についたり、主婦だったりと多忙の日々を送っていました。
 
 振り返れば、最も少ない日は6人(新島の監視業務には通常20人以上のメンバーが必要)くらいだったと思います。その方たちが、一日、半日と交代で監視についてくれました。なかには、来島した直後に会社から緊急連絡が入り、その船で戻っていったOBもいました。

 LSweb 今だからお話ししますが、田口前会長は自らガードに付き、無理をして頑張って、ようやく本土に帰って本業(高校教諭)の野球部の合宿に行ったときに倒れました。
 
 ガード最終日。無事故を成し遂げての打ち上げ。村からは村長、協会から小峯理事長も来て下さいました。メンバーの大野謙策くん、アキくんがつくったケツメイシの夏の思い出の替え歌、それに島ちゅうの宝を、全員で肩を組んで歌い、そして泣きました。男泣きしました。あの日のことを忘れません。(以上、顧問富田浩章氏スピーチより)」

 この年、2004年のガード最終日に新島ライフセービングクラブは正式にJLA公認クラブとしてスタートしたのである。


25周年を迎えて「原点回帰」

 2005年の夏、新島ライフセービングクラブは日本ライフセービング協会公認クラブとして新たなスタートを切った。
 
 今まで続いた日本体育大学の学生に代わり、OB多田貴将氏が講師を務める東京スポーツレクリェーション専門学校(TSR)の学生が中心に、監視業務に参加した。1年目で新たに伝統を築くTSRの学生にとってはゼロからの出発であったにも関わらず、今考えるとこのときのTSRの学生は本当によくぞ頑張ってくれたとつくづく感じる。人がいることのありがたさをこれほど感じたことはなかった。


 監視業務を続けられる喜びは、新しいメンバーを育てることで新島の海を守ることにつながる。その後はメンバー等の献身的な浜紹介により、東京女子体育大学、日本女子体育大学、法政大学、玉川大学、東京海洋大学、流通経済大学、そして新たに社会人も加わり十分な人材をここ数年保っている。
 
 そして現在行っているジュニアプログラムの実施により、島の子どもたちからライフセーバーを誕生させることも今後の大きな計画の一つである。年齢に制限のないボーダレスなクラブとして現在のクラブへと発展していった。
 
 今後はオーストラリアのようなクラブ形式によって地域を豊かにすることが望まれる。ただ、島の受け入れ体制も考慮に入れなくてはいけない。夏期業務の1日の要請人数は新島で約22人である。現在はそれに十分な人員を備えているが、島で受け入れるキャパシティには限界があることも否めない。
 
 クラブが大きくなっていくことは、ファシリティの整備も十分にしなくてはならず、今後の課題となっている。新しい人の出会いはすばらしく創造的であるものの、問題もそこには起きてくる、しかしながら人が出会えばある意味衝突はあってしかるべき、それを乗り越えてこそすばらしい組織になると思っている。今まさにその過渡期である。LSweb 

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 最後になりましたが、今回この25周年記念式典を迎えるにあたり、たくさんの島の方々、また関係各位に支えられてきたのだと改めて感じております。
 皆さま本当にありがとうございました。
 
 新島ライフセービングクラブは、海浜の安全を守るためこれからも日々努力致します。
 今後とも何卒よろしくお願い致します。









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